トヨタは解体されるなんて噂があく、いっぽう従業員にも悪いのがいた。
共産党のパリパリで、とてもうっとうしかったから、これ幸いと緑を切ってしまった。
トヨタは四〇パーセントの株をもっていたが、機に私の分だけ全部トヨタに引き取ってもらった。
売った金が四十五万円、当時としては大金だったが、ちょうど。
年尺八を吹いたりして遊んでいるうちに全部使ってしまった。
久し振くに身軽になったので遊ぶことも遊んだが、いっぽうひそかに次の道を考えてもいた。
いくら考えたって、技術以外に私にはとる道がない。
さて何をやろうといっても八方塞がりで、こんな混乱のとき、これから一生の商売を見定めようといったって世の中が動いているときには見定めようがない。
やはくすこし落ち着くまでゆっくり見て、そうして自分の方向を決めるべきだと思い、まあ無意識に遊んでいたわけである。
そのうちに一年たつと、前の一年と状態が違ってくる。
とにかくこれまでの商人的あり方から足を洗い、内燃機関の研究所を建てようと考えた。
ほかに生きる道はないし昭和二十一年に本田技術研究所を設立した。
ちょうど四十歳のときである。
浜桧に私の土地があったから、 そこ、疎開工場のバラックを買ってきた。
また爆撃されたひどい機械があったので、まず修理し、どうにか使えるようにした。
五、六台の機械を動かして仕事を始めた。
浜松は織物の産地で、シャツトルという往復する機械を使っていたが、どうも能率が悪い。
そこで縦に動くロータリ式をつくろうと思ったが、考えてみると、そんなものですぐに飯を食うわけにはいかない。
そこで考えついたのがモーターバイクである。
戦時中軍が使用していた通信機の小型エンジンを買い集め、自転車につけて走った。
すると好評で売ってくれという希望者が続出した。
買い集めた小型エンジンもすっかりなくなってしまったので、改めて本格的に自家製のエンジンをつくることに決心した。
このアイデアの思い付きは、戦前は自分がどこ、遊びに行くのでも、いままで自分は乗り物関係におったから、 いつでも勝手にどこ、でも遊びに行けたわけである。
ところが終戦後はガソリンがないから自動車を動かすわけにもいかんし、バスでも汽車でも下手に乗れば混んじゃうし自分で乗り物を動かしているくせがあるから、なんとか確保したいと思って自転車につけてみたのが結局動機だった。
自分が乗るためで、人に売るためにつくたんじゃない。
自分が遊びに行きたいために、そのころ尺八をやっていたから、ぶらぶら遊びに行きたいためであった。
何しろタンクなんか最初はないから、湯タンポにパイプをつけてタンクの代用にするとかないものづくしの時代だからお粗末なものであった。
結構交通機関として立派に役立ったのだから、 いま考えれば面白いようなものである。
とにかく、私の自家用車(?) が結構商売として売れたということは嬉しかった。
技術屋というやつは、儲けるということも嬉しいが、それより自分に目的があってつくっている。
どんな小さなものでも、人から見ればこんなものと思うようなものでも、やはりつくる喜びというもの、つくつているときも楽しいけれど、生産できたときの楽しみというのは、技術屋でなければわからない心理である。
つくる喜び、完成された喜び、つくる喜びの裏には苦労もある。
苦労自体がそのときは苦労であっても、完成のときを夢見てつくつているから、苦労が何も苦労でない。
あとから考えればほほ笑ましい苦労をしているけれど、そのときは大真面目である。
当時の月産は二百から三百程度であったが、しまいには一千台くらいつくったと思う。
そのころには各地の自転車屋さんやヤミ屋さんがリュック背負って買いにきた。
栃木、岡山などから買いにきた。
自転車のエンジンを入れたリュックを背負っていき、お客さんの自転車にとく付けたものである。
あれはヤミ屋の乗るものだなどと、さんざんに悪口をいわれたこともある。
また「ガソリン不足時代の現在、だれがそんなものに来るか」と批判をうけたが、私は「ガソリンのない時代だからこそ売れるのだ」と答えるのが常であった。
「統制されているガソリンの量ではとうてい自動車を走らせることはむずかしい。
仕事の能率を上げることは復興のためにも必要なことだ。
だからこそ、少ないガソリンで走れる簡単なオートバイ(?) がみんなに要求されるのである」 そういう私に対して一部の人々は、「目先が利く商売上手だ」と批判する。
これも私にいわせれば一つの創意なのだ。
国情にマッチししかも。
歩進んだものを考え、創造すること く 発明に通じる道といってもいいだろう。
どのような仕事であろうとも同じようなことがいえると思う。
簡単にできるわいと考える人はいわば素人である。
人間、経験を積めば積むほど、あるいは本職になればなるほど仕事そのものはむずかしくなってくる。
真のエキスパートは、不可能の壁を打ち破るところに無上の喜びをもつものではなかろうか。
その過程における労苦は、真の意味の労苦とはならない。
それに精神を打ちこんでいるときには、親兄弟を忘れ、金銭を忘れ、名誉を忘れ く あらゆる世俗的野心を忘れるものである。
壁につき当たったとき、真の勇気がわき立ってくるものだ。
こんなふうに、バイクをやっているうちに今度はオートバイをつくりたい欲望にかられ研究所全員の智能を集め改革案を練った。
まずどうしても強いフレームをつけた馬力の強いのをつくろうということになった。
設計。
完成祝いには、「ドプロク」の祝杯をあげたものであった。
その席上、「とにかり、長い戦争が終わってみると日本の技術がひどく遅れていることに気づいた。
この遅れを一日も早くちぢめなければならない。
したがってわれわれは一にも技術、二にも技術、いっさいを技術の革新にかけて勉強しなければならない」という意味の大気炎をぶちまけた。
すると、「社長は夢を見ているようですね」とだれかがいうのだ。
「そうだ。
私はいつまでも夢を見つづけようと思っている」と私はこたえた。
「とくにスピードに夢を託そうと考えているのである。
そうだ、この事(新設計になるオートバイ)は、夢を託する車だ。
夢にしよう、すなわち、この事を『ドリーム号』と名づけよう」 こうしていまのわが社の『ドリーム』が誕生したのである。
ピストン・リングからバイク、オートバイ、プロペラなど、いま私は百五十をこえる特許をもっているが、考えてみれば、その出発点となった「ドプロク」の視杯は、期待以上の成果を生んだわけである。
いまは従業員約五千名、年間の売り上げ目標が一千億円、嘗ては五万円の借金もできなかった私だったが、 いまは十億円の借金も容易にできるようになった。
私は過去における百五十に余る発明工夫の特許に対して「藍綬褒章」を授与された。
考えてみれば、生きるために自分の好きなことに終姶しただけで、まだこれといった貢献もしていないのにとあつかましい私もいささか面映ゆい思いだったがあくがたりいただくことにした。
授賞式の席上において高松宮殿下が、受賞者一同のなかでいちばんの年少者であった私に目をとめられ、「発明工夫というものはずいぶんと苦しいことでしょうね。
私にはからながくねんごろな言葉をかけられた。
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